たらこな日々

Being in the "Now"

『ニュー・アース 第8章』内なる空間の発見

全米で580万部を突破した「ニュー・アース 意識が変わる世界が変わる」の内容を各章ごとにお伝えしてまいります。

作者のエックハルト・トールについて...

エックハルト・トールはドイツ生まれでカナダ在住のスピリチュアル・マスターです。

彼は29歳の時、長期間に渡り自殺を考えるほどの鬱に悩まされていました。

しかしその後「内なる変革」を通して人生を変えるような至福を経験しました。

彼は特定の宗教あるいは伝統的な教義に属さない現代のスピリチュアルな指導者で、著書やセミナーを通じて苦しみから脱する方法について語っています。

 

この本は私の人生を変えたといっても過言ではないほど私の人生に大きな影響を与えています。私はこの本を読んで「目覚め」のプロセスが始まった一人です。

誤解のないよう申し上げておきたいのですが、私は悟りを開いているわけではありません!

この本は10章で構成されています。

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第1章 私たちはいますぐ進化しなければならない

第2章 エゴという間違った自己のメカニズム

第3章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと

第4章 エゴはさまざまな顔でいつのかにか私たちのそばにいる

第5章 ペインボディ(私たちがひきずる過去の古い痛み)

第6章 「いまに在る」という意識が私たちを解放する

第7章 ほんとうの自分を見つける

第8章 内なる空間の発見

第9章 人生の目的は「何をするか」ではなく「何者であるか」

第10章 新しい地

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第8章「内なる空間の発見」

※私が解釈した視点からお伝えしています。

 

抵抗しない、判断しない、執着しない、この三つは真の自由の、そして悟りを開いた生き方の三つの側面だ。

 

すべての状況は変化し、すべての形は一時的でしかないと気づけば形に対する執着も、形への自己同一化も減る。

 

「これもまた過ぎる」という認識は無執着につながり、無執着によって人生に新しい次元(内なる空間)が開かれる。執着せず、判断せず、内なる抵抗をやめることで、その次元に近づくことができるのだ。

 

形への全面的な同一化から離れると、意識である「本来のあなた」が形という牢獄から解放される。この解放が内なる空間の誕生だ。たとえ悪いことが起こっているようにみえるときでも、この空間は静寂と不思議な平安をもたらしてくれる。

 

「これもまた過ぎる」これはさまざまな出来事や現象のまわりに空間をもたらす。

感情の起伏や苦痛にさえもそのまわりに、ふいに空間ができる。その空間から「この世のものならぬ」平安がにじみ出る。

 

これを理解すれば、物事や状況に本来あるはずのない重要性や意味を見出したり、「私を満たしてくれ」「私を幸せにしてくれ」「安全だと思わせてくれ」という理不尽な要求はしなくなる。

 

この世界はそのような要求には応えられないし、そういう期待を捨てれば自分で創り出している苦しみはすべてなくなる。「これもまた過ぎる」という言葉は、現実への道標だ。すべての形は無情であると示すことで、逆に永遠をも指し示している。あなたのなかの永遠なるもの、それだけが無常を無常と認識できる。

 

多くの人の心は思考で散らかっていて、次から次に思考が押し寄せてくる。だから人生にバランスを欠いている。モノの意識に対して空間の意識でバランスを取る必要がある。空間の意識とはモノの意識(知覚、思考、感情)をもつと同時に、その底流に目覚めているということだ。この目覚めはものごと(モノ)を意識するだけでなく、自分が意識している存在であることも意識することである。

 

テレビは世界中の人が大好きな余暇活動である。テレビを見ていると思考活動が棚上げになり、自分自身から解放されているのでリラックスできる。しかし、それによって「内なる空間」が生まれることはない。テレビは催眠状態に似ている効果をもたらし、きわめて影響されやすくなる。特にコマーシャルは見るのをやめた方がいい。テレビは注意力欠陥障害の大きな原因になっている。長時間テレビを見ていると無意識になるばかりでなく受け身になってエネルギーが枯渇する。見る番組は選ばなくてはいけない。

 

内なる空間はモノや経験を探すように探しても決して見つからない。たとえばシンプルに雨や風の音を楽しむことができるとしたら、それはほんの一瞬であれ空間が開かれたということだ。そのときにはたとえかすかであっても静かな生き生きとした安らぎが感じられる。内なる空間は精神的に把握して定義できるものではなく、言葉をはるかに超えている。

 

歴史を通じて詩人や賢者は、真の幸福「いまに在る喜び」がシンプルで一見ささやかなものごとにあることを見抜いていた。ささやかな出来事は控えめだから、意識のほんの一部しか占領しない。そして残るのが「内なる空間」形に邪魔されない意識そのものである。内なる空間という条件つきでない意識そのものから真の幸福「いまに在る」喜びが輝き出す。

 

正しい行動とは、全体にとって適切な行動だ。行動が完了したとき「やったぞ」と叫んだりはしない。「見ろ、私がやったんだ」などと言う者は誰もいない。すべての創造性は内なる広がりから生じる。自分のしたことを手柄にしようとすれば、エゴが戻ってきて、せっかくの広がりが邪魔される。

 

ほとんどの人は何かを認識するとすぐに、エゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、比較し、好悪や善悪を決める。思考の形、モノの意識に閉じ込められている。

この無意識の脅迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。

この休みないラベル貼りによって、エゴは「観察されない心」としての場所を維持している。ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、心を完全に占領されることはなくなる。

 

あなたは何者なのか?意識である。

意識とは何か?この質問には答えられない。質問の答えた瞬間、対象をねじまげてモノ化することになるからだ。意識とは伝統的な言葉でいえばスピリットで言葉の通常の意味で「知る」ことはできない。探しても無駄だ。「知る」ことはすべて二元性の領域の話だ。「知る者」は永遠に知られないままに存在するしかない。「私」には形がないからだ。知ることの対象になり得るのは形だけだが、形のない次元がなければ形の次元も存在できない。

 

形のない次元とは、世界が立ち現れては消える明るい空間である。その空間が生命であり、「私は在る」ということだ。そこに時間はない「私は在る」も永遠で、時間を超越している。その空間で起こることは相対的であり、一時的である。喜びと苦しみ、獲得と損失、生と死だ。

 

思考の流れを中断して、内なる空間を発見しよう。この中断がないと、思考は創造の火花のない平凡な繰り返しになる。地球上のほとんどの人はそんな状態にいる。中断の長さは気にしなくていい。数秒でも十分だ。努力しなくても中断時間はだんだん長くなっていく。大事なのは長さよりも頻度。日々の活動や思考の流れをこの空間で頻繁にさえぎることである。

 

呼吸を観察しよう。呼吸を観察するといやおうなしにいまこの瞬間に「在る」ことになる。これがすべての内なる変容の鍵なのだ。考えながら呼吸を観察できないことにも気づくだろう。

 

たいていの人はあまりに思考に気をとられ、頭の中の声に自分を同一化しているので、自分の中の生命感を感じられなくなっている。生命感と触れ合えないことからくる不安をごまかそうとする。代替え物を求めてドラッグや危険な行動に溺れる。意識的に呼吸してみよう。内なる身体全体を感じてみるのだ。

 

内なる身体は個体ではなくて広がり、物理的な形ではなく、物理的な形を動かしている生命である。身体を創り出して支えると同時に、人間の心ではほんの一部しか理解できないような複雑でおびただしい機能を調整している知性なのだ。

 

物理学者が発見した通り、物質が密な堅さをもっているように見えるのは、人間の五感が作りだした幻想である。私たちの肉体は99%が空っぽな空間なのだ。そして、身体は広大な宇宙空間と同じように広々とした空間でできている。肉体は本質的には形ではない。内なる空間、インナースペースの入り口だ。

 

思考や言葉は形の世界に属しているので形のないものは表現できない。したがって、「私は自分の内なる身体を感じることができる」というのは思考が創り出した誤解である。実際に起こっているのは、身体として現れている「私は在る」という意識が、それ自身を意識したということだ。毎日の生活の中でできるだけ内なる身体に気づき、空間を創ろう。自分の中の生命感を感じよう。自分の身体のなかに「住まう」ことは、いまこの瞬間に在るための錨として役立つ。思考や感情や外部的な状況のなかで自分を見失わずにすむ。

 

人は一日中さまざまなものを見たり聞いたりしている。何かを見たとき、あるいは聞いたとき、それが見慣れないものや聞きなれないものであれば特に、心が対象に名をつけて解釈するより前に、ただ関心が向けられて知覚が生じる瞬間がある。それが内なる空間だ。その瞬間の長さは人によって違う。たいていは一秒にも満たないほんの一瞬なので多くの人は見逃してしまう。

 

この空間の頻度と長さで人生を楽しむ能力、他の人々や自然との内なるつながりを感じる能力が決まる。この短い空間を意識できるようになると、その空間は長くなっていく。そうなればほとんど思考に邪魔されずに知覚する喜びを頻繁に味わうことができる。周囲の世界が新しく新鮮で生き生きと感じられる。

 

内なる空間は、形に自分を同一化しなくてはならないという思いを捨てるたびに生じる。形への同一化はエゴの必要性であって真の必要性ではない。形への同一化というパターンを一つ捨てるたびに、形のレベルの自分を重視しなくなるたびに、あなたは形を超えてもっと豊かになる。少なくなることによって豊かになるのだ。

 

静かに停止しているときほど、深い本質的な自分自身でいるときはない。静かに静止しているとき、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分になる。静かに静止しているとき、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。無条件の、形のない、永遠の意識になる。

 

次回は第9章「人生の目的は何をするかではなく何者であるか」をお伝えします。