『ニュー・アース 第7章』本当の自分を見つける
全米で580万部を突破した「ニュー・アース 意識が変わる世界が変わる」の内容を各章ごとにお伝えしてまいります。
作者のエックハルト・トールについて...
エックハルト・トールはドイツ生まれでカナダ在住のスピリチュアル・マスターです。
彼は29歳の時、長期間に渡り自殺を考えるほどの鬱に悩まされていました。
しかしその後「内なる変革」を通して人生を変えるような至福を経験しました。
彼は特定の宗教あるいは伝統的な教義に属さない現代のスピリチュアルな指導者で、著書やセミナーを通じて苦しみから脱する方法について語っています。
この本は私の人生を変えたといっても過言ではないほど私の人生に大きな影響を与えています。私はこの本を読んで「目覚め」のプロセスが始まった一人です。
誤解のないよう申し上げておきたいのですが、私は悟りを開いているわけではありません!
この本は10章で構成されています。
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第7章 ほんとうの自分を見つける
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第7章「本当の自分を見つける」
※私が解釈した視点からお伝えしています。
自分は何者であるか。
エゴの罠にとらわれて生涯を無意識に過ごす人は、自分の名前や職業など、自分が同一化している事柄を並べるに違いない。
自分自身を知るとは、自分の心のなかで迷子になる代わりに「いまに在る」ことにしっかりと根を下ろすことである。
自分が何者だと考えるかによって、自分には何が必要で、人生で何が大事だと感じるかが決まる。行動や反応を見れば何が重大だと感じているかすぐにわかる。
もし平安を望むなら平安を選べばいい。
挑戦的な人や状況に直面しても反応せず、静かに観察していればいい。状況に抵抗するのではなく、即座に状況を受け入れ、それとひとつになればいい。そうすれば観察するなかから自ずと答えは出る。
世界は必ず自分にとって大事なことをつきつけてくるから、自分が何者と考えているつもりであっても長期間誤解し続けてはいられない。
自分についての見方が狭く限られていて自己中心的であればあるほど、他人の無意識な部分にばかり目がいき、そこに反応する。相手の欠陥を相手そのものと見る。それは相手のエゴだけを見るわけで、それによって自分のエゴも強化することになる。
相手の何かに反応するのは、自分にも同じものがあるからだと気づけば自分自身のエゴが見えてくる。ここまでくれば、自分が他人からされていると思っていることは、自分は自分が他人にしていることだとわかるかもしれない。そうなれば自分を被害者だとは思わなくなる。
あなたはエゴではない。だから、自分のなかのエゴに気づいたからといって自分を知ったということではない。誰もあなたが何者かを教えてはくれない。誰かが教えてくれるのは概念にすぎないからあなたを変える力はない。
ほんとうの自分自身には信念も必要ない。信念はどれも障害になる。認識すら必要ない。なぜなら「あなたはすでにあなたなのだから」
自分を何者だと考えることと、他人にどう扱われるかということは密接に関連している。大勢の人が他人に不当に扱われていると不満を抱いている。彼らは「小さな私は必要を満たせないでいる」と思っている。この基本的な誤解があらゆる人間関係の機能不全のもとになる。自分には与えるものが何もなく、世界や人々は物惜しみをして自分の必要なものを与えてくれないと信じている。
「欠乏」を考えると「欠乏」を経験する。すでにある人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。世界が物惜しみをして与えてくれないと思っているものは、あなたがすでにもっているのに出力しようとしないもの、それどころかもっていることを知らない物だ。「出力」が「入力」を決定する。すべての豊かさの源泉はあなたのなかにある。あなたの一部なのだ。
自分に終始問いかけてみよう「ここでは自分に何ができるだろうか。どうすればこの人の、この状況の役に立てるだろう?」いつも豊かさを感じていると豊かさは向こうからやってくる。豊かさはすでにもっている人だけに訪れる。
あなたが自分自身について発見したことはどれもあなたではない。精神分析などを通じて知るのはすべてあなたに「ついて」であって「あなた」ではない。あなたに「ついて」はあなたの心の中身であなたの本質ではない。
エゴを乗り越えるとは、中身から脱することでである。自分自身を知るとは自分自身であることで、自分自身であることは、心の中身と自分の同一化をやめることだ。
ほとんどの人は中身にばかり関心を向け、そに自分を同一化する。それでは中身以外に何があるのか?その中身の存在を可能にしているもの「意識」という内なるスペースである。
中身を通じてしか自分を知らないと人生という総体を断片的に把握する結果になる。
人生(生命)という総体ではすべてが絡みあい、あらゆる出来事が全体のなかであるべき場所と機能を有している。しかし、その総体はものごとの表面だけ見ていてはわからない。
禅には「舞い落ちる雪のひとひらひとひらは、落ちるべきところに落ちている」という表現がある。形のない意識の領域、普遍的な知性から生じている高い秩序を理解することはできないが、意識的参画者となって自分をその秩序に合わせることはできる。
調和と聖性を感じ取れれば意識的な参画者になれる。そして、自然のほうもあなたが人生(生命)の総体と調和するのを助けてくれる。
思考は状況や出来事がそれぞれ個別の存在であるように断片化する。この断片化は幻想なのだが、その罠に落ちているときには、それが現実だと思い込む。宇宙は分断できない総体でありすべてがつながりあっていて、独立して存在するものは何もない。
「善悪」というのは限られた味方で、相対的、一時的な真理を示しているにすぎない。
一見偶然に見える出来事が総体という織物のなかでどんな場所をもち、それにどんな目的があるのか心では理解できない。
あなたの身体をつくりあげている原始は、かつて星々のなかで形成された。どんな小さい出来事も因果関係のなかで、思いも及ばない方法で総体と関わっている。
宇宙(コスモス)は混沌ではない。コスモスという言葉は「秩序」「調和」を意味する。その秩序は人間の心が理解できるものではないが、垣間見ることはできる。
人生で最も根源的で重要な関係は「いま」との関係である。「いま」との関係が機能不全なら、それがあらゆる状況に反映されるだろう。あなたが現在という時とどのような関係でいたいかを決められるのはいまこの瞬間だ。現在という瞬間は人生(生命)と切り離すことができない。それがどんな姿で現れようと友人らしく歓迎すること。そうすれば人生(生命)はあなたを友人として接してくれる。人々は親切になるし、状況は都合よく展開する。一つの決断があなたの現実をまるごと変化させる。この決断は何度も繰り返して行う必要がある。それが自然な生き方になるまで。
現在という瞬間を友人としようという決断は、エゴの終わりを意味する。
エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。
「私は現在という瞬間とどんな関係にあるだろう?」と終始自分に問いかけることが大切だ。しっかりと観察して考えを見つけなくてはいけない。
現在という瞬間との機能不全の関係はどうすれば克服できるか?
いちばん大事なのは、自分に、自分の意志や行動に機能不全があると見極めることだ。それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が機能不全だと見極めることだ。
それを見抜くことができ、自分と「いま」との関係が機能不全だと気づけば、そのときあなたは「いまに在る」。事実を見極めることで「いまに在る」状態が立ち上がる。機能不全を見抜いた瞬間、その機能不全は解体し始める。
あなたの人生はつねに「いま」展開している。過去や未来の瞬間もあなたが思い出したり予想したりするときにしか存在しないし、思い出や予想についてもいまこの瞬間に考えている。つまりは、いまこの瞬間しかないのだ。
ではなぜたくさんの瞬間があるように思うのだろう?
それは現在という瞬間を、起こっていること(中身)と混同しているからである。
現在という瞬間を中身(起こっていること)と混同することで時間という幻想だけでなくエゴという幻想も生まれる。ここに時間のパラドックスがある。
すべては時間の影響を受けずにはいないが、しかしすべては「いま」起こる。
エゴのない状態を将来の目標にすることはできない。そんなことをしても目的を達成できない思いだけが募り内的な葛藤が激しくなるだけだ。エゴの解放が将来的な目標である限りあなたは自分にさらに多くの時間を与えることになるが、さらに多くの時間とはエゴの肥大を意味している。
だから自分に時間を与える代わりに、時間を取り除こう。意識から時間を消去することは、エゴを消去することでもある。それだけが真のスピリチュアルな実践なのだ。
ここで言っているのはもちろん、時計で計られる物理的な時間ではなく、心理的な時間のことだ。心理的な時間とは過去と将来に拘泥するエゴイスティックな心のことである。人生に言い続けてきたノーがイエスに変わるたび、あるがままのこの瞬間を受け入れるたびにあなたは時間とエゴを解体する。
無抵抗は宇宙最大の力を開く鍵である。その力によって意識が形から解放されて自由になる。形に対する内なる無抵抗は形の絶対的なリアリティの否定だ。抵抗すると、形への自分の同一化であるエゴを含め、世界と世界のものごとは実際よりもリアルに、頑強に、永続的に見えてくる。世界とエゴに重みと重要性を付与してしまい、自分自身と世界を深刻に受け止めることになる。
身体もエゴも、出来事も、状況も、思考も、感情も、欲望も、不安も、ドラマも、すべてはやってきて、重要そうなそぶりを見せるが、無へと消えていく。そんなものが現実だろうか?これは「形」という夢ではないのか?
この世界は相対的な現実ではあるが、絶対的な現実ではない。
夢の中で目覚めること、それが私たちのいまの目的だ。私たちが夢の中で目覚めたら、エゴが創り出した地球上のドラマは終焉し、もっと穏やかな素晴らし夢が立ち現れる。
あなたが「いまに在る」とき、関心が十分に「いま」に注がれているとき、その在り方があなたの行動に流れ込んで変容をもたらす。
形は限界を意味する。私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためばかりではなく、意識のなかで限界を乗り越えて成長するためでもある。
外的なレベルで乗り越えられる限界もあるが、そのまま抱えて生きることを学ぶしかない限界も人生にはある。そのような限界は内的にしか乗り越えることができない。
誰でも遅かれ早かれそのような限界にぶつかるだろう。
不幸やネガティブ性はこの地球上の病気だ。外的環境にあたるものが、人の心のネガティブ性である。
生きる喜びは形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない。
起こる出来事を通じてもたらされることはあり得ない。
その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。
エゴはつねに自分が小さくなるのではないかと警戒している。縮小しそうだと感じると自動的なエゴ修復装置が働いて、自己正当化、防御、非難によって自己意識を修復しようと図る。力強いスピリチュアルな実践は、エゴが縮小したときに修復しようとせず、意識的に縮んだままにしておくことだ。数秒間は自分自身が小さくなったという不快感があるかもしれないが、そのあとは生命力に満ちた広々としたスペースを感じるのではないか。あなたは縮んでなどいない。それどころか拡大した。自己防衛したり自分自身の形を強化しようとしないでいると形への自己同一化(自己イメージ)から離れることができる。
もちろん必要ならば「ノー」と言ってもいい。相手にきっぱりと「やめろ」と言わなければならないこともあるだろう。エゴイスティックな自己防御でなければ、あなたの言葉には反発力ではない力があるはずだ。
宇宙は何からできているのか?物質と空間である。
しかし、空間の本質は何もないこと「無」だからふつうの意味では「存在」していない。しかし、あなたのなかには空間と親和性をもつ何かがあり、だから空間に気づくことができる。空間に気づくとき、あなたは何も気づいていないが、気づきそれ自体に気づいている。気づき、すなわち意識の内なる空間である。あなたを通じて宇宙はそれ自身に気づくのだ!
あなたが見て、聞いて、感じて、触れて、考えることは現実の半面でしかない。
これがイエスの教えでは「この世」と呼ばれているもので、残る面は「天の王国あるいは永遠の生命」と呼ばれている。空間がすべてのモノの存在を可能にするように、あなたも形のない側面なしは存在できないはずだ。
人類の集団的な病は、人々があまりに起こることに囚われ人生の中身にばかり夢中になって、中身や形、思考を超えた本質を忘れているということである。そして、時間に振り回されて永遠を忘れている。永遠が真のあなた自分の生きた現実なのだ。
次回は第8章「内なる空間の発見」をお伝えします。